Nepal大地震 2015年4月25日

 4月25日この日ちょうどカトマンズに滞在していた。地震は11時56分(現地時間) M7.8 その時の情報です。
 震源地はカトマンズの北西77km。ガンダキ県、ゴルカ地区
 


Durber Square 4月26日 5:55am
NarayanTemple MajuDeval 塔が全て倒壊していた

Durber Square 5:54am
Basantapur Tower


4月25日、この日、午前中は、初夏の爽やかないい天気だった。
滞在先のHotelYak&Yetiで「古都レストラン」の土方サウジを呼び、その後ネパリ―1名も加わりガーデンでのどかなお茶会。
12時少し前、次の約束があったので3階の部屋に向かう。
エレベーターで3階へ
エレベータ降りた途端にものすごい揺れがきた。とっさに地震だと判断、Earthquake と叫び非常口の階段を駆けおりた。
エレベーターを降りて1〜2秒ほどだったと思う。幸いすぐ目の前に非常口があった。
轟音と共に横揺れがすごく、左右に振られながら(飛ばされながら)外に脱失。
地響きのような音。非常階段の壁のつなぎ目に亀裂が入る、頑丈な建物だがここが崩壊したらやばいと、必死に駆け下りた。

地震発生時間は11時56分(ネパール時間)

館内放送など誘導の案内はなにもなかった。
ホテルロビーに降り、正面玄関外へ。
ホテルの玄関の大きなドアのガラスが割れていた。
近くには血を流した半身裸の男性が手当を受けていた、多分避難時に正面玄関ドアガラスに衝突したのかも・・・。
もう一人心臓マッサージを受けている外人の男性がいた。何人もで交代でマッサージをするが回復せず、その後は不明。
近くに奥さんらしき人がが心配そうにうずくまっていた。

その後、正面口から広いガーデンに避難。芝地は水があふれていた、地下爆発でも起こったかと思ったがプールの水が飛び出したことが判明。
急ぎネパールの友人達に電話、この時点では携帯が通じた、数分後から国内外とも全く通話不可。
16時頃から電話がようやく通じるようになった。日本でも即報道されたようで家内や友人から電話連絡がある。

滞在していたYak&Yetiホテルは、この日は毎週土曜日恒例のガーデンでのバイキングの日で、庭にはテント、椅子が並べられ食事会の準備が出来ていた。
それがそのまま避難場になった。

ガーデンにはたくさんの人が集まっていた。この間ホテルの館内放送も避難指示も全くなし。
その後、15時頃まで3〜4回、震度4前後の余震があった。古都の土方さんが心配で、彼のレストランに向かうと、彼も心配してホテルに向かって来るところだった。ダルバーマグの大道りで合流、一緒にヤクホテルの庭に避難。
15:00から17時までは揺れ無し、少し地震も落ち着いてきた。15時ホテルマネージャのアナウンス有り、
@部屋には入らないように、エレベーターは使わないように、勿論シャワーも。
 もし部屋に入ったら5分で戻るように。
A今詳細情報を調べている
B空港へスタッフを2名向かわせ飛行機の確認に行っている
  次の案内は後ほど・・・。
この間、ミネラルウオーターの配給が有る、食事の提供は無し
土方氏と庭で過ごしていたが、曇り空になってきた、寒い。風も出てきた。
スタッフが毛布を次々に運んでくる。それを頭から被りじっと待機
16時頃空港から避難してきた人たちが戻ってきた。結局、今日は空港は閉鎖、インドやバンコクに戻ったようだ。
 
ホテルの庭4月25日夕 18:00pm

ホテル庭、25日夜19:00pm

ホテルの庭で夜を過ごす、25日22:00pm
 
Pray for Nepal

16:30頃2回目のマネージャーからのアナウンス
夕食は17:00頃に用意する予定、1階の人達から順番に提供する。(実際には18時にレストランが開いた)
飛行機は今日は着陸できず、全便欠航、Hotelも満杯、庭で過ごすよう案内あり

私は20時頃食事をとる。現地食ダルバートの簡単な夕食だった。

古都の土方氏は避難時足を痛め、歩行が困難、店のスタッフに電話、車を手配してもらう。

22時頃町に出てみる。
ダルバ^マグの本通りは明かりもなく真っ暗、道の中央やチョットした広場に夜を過ごしている人たちがいた。アンナプルナホテルは自家発電で灯りあり、15分ほど歩きホテルに戻る。

この夜は部屋で過ごすか、外か思案したが 皆それぞれに部屋に入って行く、エレベーターも動き始めた。

23時ホテルの部屋にはいる。エレベーターは動いていたが非常階段から3階へ。
この頃は地震もだいぶ落ち着いていた。
私の部屋の前は非常口で、ドアを開け、いつでも脱失できる状態でしばらく読書、どうにも眠く、しばし仮眠。
一度小さな揺れが来た。震度2ほど。
目が覚めたら朝の5時だった。
その後は朝まで大きな地震はなかったように思う。

4月26日、私の帰国予定日。この日は飛行機が飛ぶと言う。
出発まで時間がある。早朝、5時30分、一人町の中心街を回ってみることにする。
ホテルを出てダルバーマグからAsanに向かう。噂ではアサンの建物はかなり破壊されたと言う噂が広がっていた。
アサン通りの入り口は確かにかなり破壊されていた。メイン通りはほとんど倒壊無し、脇道に入ると煉瓦が崩れ落ちた家が数軒あった。
その後、世界遺産、旧王宮ダルバールスケアに向かう。


中学校瓦礫が・・。4月26日早朝

アサン入り口近く

ダルバースケア入り口右

ダルバースケア、クリシュナ寺院

元王宮近く、倒れた電柱

ダルバーマグ窓ガラス破片

バサンタプール広場(いつもチベット民芸品など売っている)には、夜を過ごした人達が朝をむかえていた。
広場の入り口右の建物が崩れ落ちている。正面のNarayanTemple MajuDebalは建物は倒壊、台座だけがのこっているのみ、正面左奥のカスタマンダップ(1本の木、後のカトマンズの語源となった)も全壊、凄まじい姿に変わっていた。


4月26日朝、アサン脇道倒壊家屋、避難者

ダルバールスケア出口(インドラチョーク)

ラトナパーク近く、避難者

ダルバースケア、焚火で暖を取る避難者

アサン中心(野菜マーケットのある所)

インドラチョーク

ダルバールスケアを右折するとKrishunaTempleも崩れ落ちている。
次にダルバースケアを出てインドラチョークに出る。このあたりは、おおきな被害はない。
更にタメル(観光客の集まる街)の中心通りに向かう。煉瓦のおちた瓦礫はあるが家屋の倒壊はなし、タメルチョークに出て右折、暫く行くと電柱が2本倒れている、コンクリの電柱の中に埋め込まれたワイヤーもたくさんあるが、地盤が弱いのか地中への埋め込みが不十分だったのか・・・。
更に元王宮にむかう煉瓦塀が崩れおちた個所があるがおおきなダメージはなさそう。
元王宮正面に出て右折、ダルバーマクの本通りへ、この通りはおおきな被害なし、新築のブテックの上部窓ガラスが道に落下していた。

さて、空港へはどうやって行くのかホテルスタッフに聞くとシャトルバスが出ると言う。10$要求された(高い)
空港までは車も少なく、町は閑散としていた。崩れ落ちたガレキはあったがおおきな倒壊建物は見えない。空港近くのゴルフ場は避難テントがたくさん張られていた。
空港に到着したが中に入るのが大変だった。
ひとつしかない入り口は扇状に人が列を作りパニック状態、あちこちで怒号が飛び交い、小競り合いがあり、入り口に殺到する。
日本人のツアーGもいたが比較的皆穏やか、それでも一人の男性はキレかけていた。ツアーリーダーは落ち着きどっしり構えていた。ネパリ―、中国系は凄いパワー、団体で一気に入り口に向かい、とうとうドアを破壊してしまった。
私は静かに待つ。少しずつではあるが確実に入り口に向かい進んでいる。こんな時は善良な日本人は弱い、負けてしまう。
私はなんとか荷物を運ぶカートを手に入れたので、アメリカ人夫婦の大きな荷物を一緒に運んであげる。2人は昨夜は空港の外で夜を過ごしたと言っていた。
3時間ほどかかって空港の中に入る。途端に大きな地震が(震度3ほど)来た。子供が泣き叫んでいる。
なんとか中に入りX線検査を終え、チケットカウンターへ。ここにくるまでも大変だった。
最後の税関審査を終え一息つくが、即、搭乗しろと言う。
空港での手荷物検査は今日は無し、中を見ることもなかった。
空港滑走路の端を見回すとインド空軍の輸送機が2機あった。素早い対応に感心する。
急ぎ、Nepalの友人達に電話をすると、既にTakeoffしたと皆で安心していたらしい。結局この日は増便で飛行機は2機とんだようだ。

乗り継ぎのBKKに着くと、労いのおもてなしがあった。
飛行機をでて空港ターミナルに入ると、キャビンアテンダント他おおくのスタッフの出迎えがあり、乗客一人一人にミネラルウオーターと、白いBoxが配られた。中には、パン、パウンドケーキ、オレンジジュースが入っていた。おしぼりまでついた歓迎をうけほっとする。

バンコクでは日本のレスキューチームと会う。早く行ってくれ、と願わずにいられなかった。
彼らは、結局27日はKTM空港に着陸できず、28日に到着したとの事。
KTMの空港は地震当日の4月25日、27日は空港閉鎖、27日は世界各国からの救援機が殺到し閉鎖。

KTMに暫く残り、被害状況や何か手伝いをしたかったが、日本は連休で仕事も忙しくなる
どうしても帰らなければならない。無念の帰国になる。

予定通りの27日、無事日本に帰国。

  ▲山岳地帯ロールワリン(Rolwaling)の被害状況は次ページ,こちら
 
 
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