NewZealand.Mt Tasman 長野県山岳連盟ニュ-ジ-ランド遠征 |
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南半球のニュ−ジーランドには、標高こそ低いが1年中氷河に覆われた素晴らしい山々がある。南島のタスマン氷河を中心にした山々だ。1965年長野県山岳連盟(現協会)の仲間達と、このニュジーランドの山に遠征した。現地では約3ヶ月間滞在、その間、9名の隊員で11峰の山々に登った。 (登山隊メンバー) 隊長:堺沢清人(駒峰山岳会)、副隊長:小池明義(駒峰山岳会) 志川輝夫(グループ.ド.モレーヌ) 清水 満(伊那山岳会) 知久平 彰(駒峰山岳会) 丸山晴弘(グループ.ド.モレーヌ) 井上 進(駒峰山岳会) 福沢勝幸(松本登高会) 島田公博(読売新聞特派員) |
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この遠征は、まだ外貨が自由でなかった時代の海外登山。長野県山岳連盟の若手を中心に、この計画は立案された。しかし、計画はしたものの最大の課題は、やはり外貨の取得だった。当時、文部省のスポーツ外貨は、年に1パーティのみ。様々な曲折があり、一時この計画は暗礁にのりあげた。そんな時、幸運にも読売新聞から特派委員派遣の話が持ち上がった。その取材費と言う名目で外貨を取得する事ができ、なんとかこの遠征は実現した。ニュージーランドでは、幾つかの山を登った。なかでもタスマン登頂は忘れられない山の一つになった。 |
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Mt,クックから望むタスマン ルートは手前雪壁から雪稜、更に右の雪稜から氷の壁 |
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Mt,Tasmanは、全山氷に覆われた山で、登攀は困難をきわめた。この山は、ニュージーランドでも最も困難な山といわれている。最初のアタックは、井上進と困難なサイムリッジを選んだ。しかし、第一回のアタックは、頂上直下まで迫りながら時間切れで敗退。ビバークしても登るつもりだったが、隊長命令でやむなく下山。 その後1週間、山は荒れ、風雪に閉じ込められる事になる。 2回目のアタックはシルバーホーンのピーク経由のルートに変更。メンバーは井上、福沢でルートを開き、堺沢隊長、清水が続く。今度こそ絶対に登ろうと、アタックキャンプを出たのは夜中の0時、登頂に成功したのは夕暮れ迫る19時30分だった。山頂はアイゼンの爪がわずかに食い込むだけの、硬い氷のピークだった。 夜のとばりに追い立てられるように困難な氷の壁を下る。 いつしか頭上には、南十字星が輝いていた。 その夜は、クレパスの中で過ごす。 翌日は、グレアムリッヂを下る。アイスハーケンが、10Cmほどしか食い込まない氷にザイルを固定する。50度ほどの氷の壁からオーバーハングしたアイスフォールの下降、懸垂の連続で、ようやくリンダ氷河に降り立つ。 実に40時間に及ぶ長い行動だった。 私にとっては、初めての海外の山。日本では、体験しえなかった硬い氷の壁、美しい氷河、全てが感動的で、充実した山行だった。 タスマンは、我々、長野県山岳連盟隊が、日本人として初登頂の山となった。 |
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