ネパールヒマラヤ.ランタン.リ登山
      Nepal Himalaya.Langtang.Ri  (7205m)
      「山岳同人青いけし」ヒマラヤ.ランタン.リ登山隊
                    隊長.福沢勝幸、副隊長.山本大三、マネ-ジャ-.一ノ瀬雄三、
                      丸山喜康、丸山啓二、矢口勝義、山本満



念願のヒマラヤ登頂
1987年、松本を中心とした山仲間で結成された「山岳同人青いけし」の仲間とヒマラヤのランタン.リ(7205m)に遠征。初めてヒマラヤの登頂に成功した。
当初、この計画は、ポストモンスーン期にランタン.リ、その後、当時、冬期未登のランタンリルンを継続して登る予定であった。しかし、前年、同人の仲間がグルジャヒマールで滑落死、やむなくこの計画は縮小せざるをえなくなった。
登山の前年、ランタン谷の偵察に出かけた。次のヒマラヤは、不可能な山に挑戦する余裕はない。かといって、易しい山に登るのも本意ではなかった。絶対に成功しなければいけないと言う思いと、登りがいのある山、我々の技術にあった山、そんな思いでの偵察山行だった。
約1ヶ月にわたるヒマラヤでの調査の結果、我々の条件にぴったりなのがランタン.リだった。

登山ルートは南西稜に決める。南西稜は、巨大な雪庇が発達した、雪と氷のナイフリッジで、素晴らしいルートだった。C1までは易しい雪面、クレパスさえ回避すればよい。
C2(6200m)へは、途中高度感のある60度ほどの雪壁もあるが、さほど難しくはない。
C2からが核心部になる。6400mで最大の雪庇の乗越がある。出口は90度以上あり、微妙なバランスを要求された。登攀ルートは殆んどチベット領を登る事になり、ネパール、チベット、両国の山々を眺めるクライミングは、素晴らしいものだった。
このルートは、常にチベットからの強風にさらされており、雪庇の発達が凄い。モンスターのような、巨大なブロックが次々と現れ、それでも、ルートは見つかるもので、それが、かえって核心の面白さを増している。
6500mから上部には、氷の突起が続くリッジが、何箇所もあった。
C3に登る手前には、唯一、腰を下ろし休める地点がある。ネパール側に張り出した雪庇の陰で、風も防げる格好の場所であった。クレパスさえ気をつければ暖かい陽だまりになっていた。
C3への登りは、痩せた雪稜になる。
スノーバーが不足の為、フィックスロープが固定されず、振られそうになるが、快適な雪稜だ。その上部に、わずかな窪地を見つけC3を設営した。
ここまでくると、チベットのシシャパンマが目の前だ。8000m峰で、高さこそあるが、あまり登攀意欲の湧く山ではない。

4月18日、ファイナルキャンプを出発。前日、一次隊の、一ノ瀬雄三、山本満が既に登頂を果たしている。今度は我々が登る。風は強いが晴れ、天気は、なんとか持ちそうだ。
登りはじめて、手の指の感覚が無いのに気がつく、指がやられるかも・・・と、思いながら"もうチャンスはない、行くしかない”と、そのまま山頂を目指す。雪壁からリッジ、そして、幾つかの突起を越え、やがて、頂上直下の雪面にでる。
理想的な三角錐の山頂が目の前だ。あこがれ続けていたヒマラヤのピーク、薄い空気にあえぎながら、1歩1歩確実に、最後の力をふりしぼる

9時20分、狭い山頂にようやくたどり着いた。

ものすごい風が吹き上げていた。
山本が泣いている、丸山(敬)もシェルパと抱き合い登頂の喜びに浸っている。トランシーバーに入るBCからの声は、おめでとう、の声が、風の轟音にさえぎられ、消えていく。うまく聞き取れない
なんとか登れた。
後は、事故の無いように、ベースキャンプに下るだけだ。
ふらふらになりながら、途中、フィックス.ド.ロープを回収し、2日後BCへ戻る。

今回のチームは、最強だった。シェルパは、サーダーが途中リタイアしてしまったが、アジワ、オンチュウ共、屈強のシェルパだった。

その若い彼らも、今は、ヒマラヤの地に眠る、合掌。

4月25日、住み慣れたBCを後に山を下る。
往路で活躍してくれたポーター達が登ってきた。
山本(大)は、体調をくずし、ポーターに背負われて山を下る。

皆、満ち足りた表情だ。村が近づくにつれ、谷間の緑が濃くなってくる。

2ヶ月前、ここを通過した時は、まだ雪に覆われていたランタン谷も、下るほどに、緑が濃くなり、花も咲き始めていた。




C2からC3への雪稜

C2上部、6400m地点の雪庇

山頂直下

1次隊登頂


2次隊登頂


雪壁のトラバース

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